そもそも、明石元二郎とレーニンが接触した事実は確認されていないのである。
明石の諜報活動については、自身が著した『落花流水』にその顚末が報告され
ているが、レーニンはロシア国内の反帝政活動団体やその幹部を列挙した中に「民権社会党ノ領袖」とわずか八字で紹介されているに過ぎず、実際の明石の謀略
活動の報告の中では、一度たりともレーニンの名は挙げられていない。
明石はレーニンの存在は知っていたが接触はしなかったし、また当時の明石には接触すべ
き重要人物との認識もなかったであろう。
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日露戦争の裏面で、杉山の同郷人である明石元二郎陸軍大佐(のち大将、台湾総督)が欧洲で従事していた謀略活動、いわゆる「明石工作」は、明石にまつわる英雄伝説であるとともに、杉山茂丸の事蹟を語るときにもその知謀にまつわる伝説のひとつになっていると言えよう。
明石元二郎は日露戦争勃発前、ロシアの日本公使館付陸軍武官としてペテルブルクに駐在していた。開戦後、日本公使館のロシア撤退を受けてスウェーデンの
ストックホルムに開設された日本公使館に移った明石は、ストックホルムを根拠地としながらドイツ、フランス、スイスなど欧州各地を飛び回って、諜報網の確
立や、反帝政ロシアを標榜する団体への支援を通じたロシアの後方攪乱工作などに従事した。これが「明石工作」と呼ばれるものである。「明石工作」は司馬遼
太郎の小説『坂の上の雲』などで採り上げられ、日露戦争の帰趨に大きな影響を与えた活動であったかのように語られてきたが、近年の研究では明石元二郎が武
器の供与などを行ったフィンランドの独立運動をはじめ、様々な武装蜂起の計画はことごとく頓挫したことや、欧洲における彼の謀略活動はロシアやフランスの
警察によって監視されていたことなどが明らかになっている。明石の活動を戦時謀略活動としてどう評価するかはともかく、英雄伝説はまさしく伝説に過ぎない
のである。
明石工作が伝説に過ぎないのであれば、当然に杉山茂丸にまつわる伝説もまた検証すべき対象となるであろう。その杉山にまつわる伝説とはどのようなものであろうか。
杉山茂丸の孫である杉山龍丸は、その著作「杉山茂丸の生涯」の中で、「宮崎民蔵等をフランスに派遣し、レーニンに会わせ、レーニンのメッセージをもって
帰った宮崎等の進言で、茂丸は児玉と計り、明石元二郎大佐を、欧州秘密軍事工作員として派遣し、独英の協力を得て、日露戦争中、レーニン等を露国内に送る
手筈をととのえた」、「明石元二郎大将(当時大佐)を欧州に派遣したことも、レーニン・スターリンを、英・独・ポーランドの協力でレニングラードヘ密封列
車で送ったことも事実である」などと書き記している。この杉山龍丸の言説が、その後さまざまな人によって引用を繰り返され、ロシア革命は杉山茂丸がレーニ
ンを支援して成し遂げさせたものであるという趣旨の、杉山茂丸とロシア革命をめぐる伝説が形成されていったのである。
しかし杉山龍丸の著述には、いくつかの点で決定的な誤りがある。
例えばこの著述にしたがえば、宮崎民蔵はレーニンに面会するため杉山茂丸によってパリに派遣されたことになる。しかし宮崎民蔵は、自身が抱懐する土地均
享論について西欧諸国の識者と交流することを目的に外遊したのである。その時期は明治三十年の早春二月であり、渡航先は米国であった。宮崎は渡米後三年半
にわたって米国内で賃労働に従事しながら欧州行のための旅費を算段して、明治三十三年八月にようやくロンドンに赴いた。パリにはその年の九月に約一ヶ月滞
在したに過ぎない。すなわち宮崎民蔵の外遊目的はレーニンに会うためではないし、労苦を覚悟した上での自発的な行動であって、杉山茂丸によって派遣された
ものではないのである。
一方のレーニンは、一八九六年すなわち明治二十九年の十二月に、反政府活動の咎で拘禁され、翌年シベリアに流された。当時弱冠二十六歳の青年ウラジミー
ル・ウリアーノフのちのレーニンは、星の数ほどいたであろう帝政ロシアの反政府活動家の一人に過ぎない。そのレーニンがシベリアへの流刑から放免されて国
外亡命を決意し、スイスのチューリッヒにやってきたのが明治三十三年八月である。九月にはミュンヘンに住居を得て、ロシア社会民主労働党の機関紙『イスク
ラ』発刊に向けた活動をしていた。また『宮崎兄弟伝 アジア篇(上)』で上村希美雄が「無名に近い存在」と指摘しているように、当時のレーニンはロシアの
反政府活動家の中では、ロシア社会民主労働党の一領袖に過ぎない。同党にはプレハーノフやマルトフらの有力な活動家が存在したし、党外に目を転じれば農民
を勢力基盤としてエスエルを創設するチェルノフらも有力であった。レーニンは国外亡命後、党内外で激しい権力闘争を繰り返しながら、結果として最終的に権
力を握ったのであって、明治三十三年という時点でレーニンがロシア革命をなし遂げる人物であると考えた者はどこにもいなかったに違いない。
以上の状況を踏まえて、杉山龍丸による言説を検討してみると、どのようなストーリーが浮かんでくるだろうか。杉山茂丸が宮崎民蔵をレーニンに会わせるた
めにパリに派遣したというのが事実であるのなら、杉山はシベリアに流刑された無名の一青年を知っていて、その流刑が解かれる時期も知っていて、流刑が解か
れたあとに彼が国外亡命をすることも知っていて、しかもあまたあるロシアの反政府活動家の中から彼が将来ロシア革命を果たすべき有力な人物であると見込ん
でいたので、そのタイミングに合わせて宮崎を米国から欧州へ赴かせたということであらねばならない。しかし、もし杉山にこのようなことができたのなら、彼
は超能力の持ち主であろう。すなわちこのストーリーは荒唐無稽で、信憑性はほとんどない。真実であると主張するためには、杉山がどのようにしてレーニンの
存在を知り、どうやってその流刑の解かれる時期を知り、如何にしてその釈放後の行動を知り、そしてなぜレーニンをロシア革命の最有力者と認めていたのかが
説明されなければならないであろう。
またレーニンやスターリンを密封列車でロシアへ送り込んだとされている点は、日露戦争さなかのロシア第一革命と、第一次世界大戦さなかのロシア第二革命
とを混同した明白な誤りである。明治三十八年一月にペテルブルクで起ったいわゆる「血の日曜日事件」に始まるロシアの反政府暴動は、戦艦ポチョムキン号水
兵の武装蜂起なども惹き起こす騒乱となったが、政府の武力鎮圧などもあって年内には概ね終息した。これがロシア第一革命である。このときレーニンは密かに
帰国しているものの、それはこの年の晩秋のことであり、第一革命はもはや終息に近付いた頃であった。既に明石工作は打ち切られており、明石がレーニンの帰
国を助けたものではない。このときレーニンはさしたる成果を得ることなく、再び亡命生活に戻った。
そもそも、明石元二郎とレーニンが接触した事実は確認されていないのである。明石の諜報活動については、自身が著した『落花流水』にその顚末が報告され
ているが、レーニンはロシア国内の反帝政活動団体やその幹部を列挙した中に「民権社会党ノ領袖」とわずか八字で紹介されているに過ぎず、実際の明石の謀略
活動の報告の中では、一度たりともレーニンの名は挙げられていない。明石はレーニンの存在は知っていたが接触はしなかったし、また当時の明石には接触すべ
き重要人物との認識もなかったであろう。
レーニンが封印列車(杉山龍丸のいう「密封列車」)でロシアへ帰国したのはそれから十二年後、大正六年の第二革命の際のことである。第一次世界大戦の最
中であり、ロシアとドイツとは交戦中であった。ドイツ政府は、敵国ロシアの反体制運動家であるレーニンを帰国させることに戦略的意義を認め、レーニンの
乗った汽車がドイツ国内を通過することを黙許した。その際の条件は、レーニン一行がドイツ国内を通過し終えるまで車両から出ることを禁止するというもので
あった。封印列車と呼ばれる意味はそこにある。
このときに、杉山龍丸がいうような「英・独・ポーランドの協力」などは、そもそもあったはずがない。イギリスはロシアとともにドイツと死力を尽して戦っ
ていたのであるから、敵国ドイツを利するようなレーニンの帰国を助ける行為に協力するはずがない。そして日本もまた大正三年以来、同盟国イギリスやロシア
とともにドイツと戦っていたのである。もし杉山茂丸がそれに関与していたというのなら、杉山のその行為は紛れもない利敵行為であり、杉山茂丸は売国奴と呼
ばれなければならない。
これらのことから、杉山茂丸がレーニンを助けてロシア革命を成功させたかのような言説は、根拠のない風説に過ぎないと評価しなければならない。杉山龍丸
はこのことを、宮崎滔天らとともに孫文を支援した末永節らから聞いたと書いているが、おそらくは上村希美雄が言うように、レーニンがロシア革命を完成させ
た後に創り上げられた一種の「神話」でしかないのである。
おそらく杉山龍丸も、その点に気付いていなかったわけではなかろう。そのため彼は『わが父・夢野久作』において、「一方では、共産主義によって、従来の
ロシヤ国内の体制を破壊して、人間性の国、社会をつくろうとするレーニンを助け、一方では、自由主義、資本によって開発をするというような矛盾した行動が
あり、そこに彼自身の誤算もあり、大きな盲点となりましたが、生涯をかけて日本を救ったことは、また、日本の明治維新と称する、天皇制、政府機構その他も
救ったことになりました」という意味不明の弁解を披瀝せざるを得なくなるのである。だが、杉山茂丸に矛盾した行動があったのではない。矛盾は、杉山龍丸の
歴史や祖父に対する認識にこそあったのだ。
원래, 아카시 모토지로와 Lenin가 접촉한 사실은 확인되어 있지 않기 때문에 있다.
아카시의 첩보활동에 대해서는, 자신이 저술한『낙화 유수』에 그

