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KJCLUB - 日本の朝鮮統治の「真実」
ミリタリー


差別などなかった。最後の証人が語る、日本の朝鮮統治の「真実」

まぐまぐニュース! / 2017年10月4日 2時43分

             

         
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日韓関係をぎくしゃくさせている原因のひとつとしてあげられることの多い、日本による「朝鮮統治」。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、朝鮮総督府で官吏をされていた西川清氏の著書『朝鮮総督府官吏、最後の証言』の内容を引きながら、朝鮮統治時代の日本人と朝鮮の人々との関係性について、メルマガ著者の伊勢雅臣さんが分析・解説しています。


朝鮮総督府の「一視同仁」チームワーク


朝鮮総督府で官吏をされていた人が、当時の体験を語った貴重な本がある。本年7月、102歳で亡くなられた西川清氏の『朝鮮総督府官吏、最後の証言』だ。表紙の帯には「おそらく総督府の実態を語れるのは私が最後だと思います」との発言がある。

この本の裏表紙にある写真が、西川さんの証言のすべてを物語っている。そこでは4人の若い男性が桜の木の下で、肩を組んでいる。キャプションには「1934年 官吏仲間と楽しく花見する西川氏」とある。

一人は着物を着ているので日本人と分かるが、他の3人は洋服だ。そのうちの一人が西川さんで「大和系日本人」、残る2人の青年には「朝鮮系日本人」と注意書きされている。

仲良く肩を組んでいるので、そのような注意書きがなければ、誰が日本人で誰が朝鮮人だか全くわからない。西川さんの朝鮮総督府での業務体験を読んでいくと、日本人と朝鮮人が一体となったチームワークで仕事をしていたことがよく窺われる。


町の周囲の山が禿山だった


西川さんは昭和8(1933)年18歳で和歌山県の熊野林業学校を卒業し、校長の斡旋で朝鮮総督府に就職した。朝鮮といっても、当時は内地(国内)、外地(朝鮮、台湾)とも同じ日本だったので、日本国内の遠い地方に行くという感覚だった。任地は江原道(こうげんどう)。「道」は日本で言えば「県」にあたり、江原道は朝鮮半島の東海岸、南北ではちょうど中程にあった。


朝鮮に行ってまず驚いた事は、釜山(プサン)や京城(ケイジョウ、現ソウル)など町の周囲の山が禿山だったことです。


 …朝鮮にはオンドルという薪(まき)を焚いて床を暖める設備がどこの家にもありました。朝鮮は非常に寒くなりますから、このオンドルには大量の薪が必要です。しかし、朝鮮には植林をするという技術もなく、指導者もいなかったので、街に近い山々にはほとんど樹木がなくなっていました。

(『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版編集部/星雲社)


西川さんの最初の仕事は、この禿山に植林をすることだった。まず土が流れないよう、70~80センチの段々を作り、そこに木を植える。植林は土砂崩れ洪水防止のために急務であった。また海の近くに植林することで、漁場に栄養が行き渡る。西川さんは日本の林業学校で「樹のない国は滅ぶ」と教えられていた。

朝鮮総督府は1911年からの30年間で5億9,000万本もの植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。西川さんはその一翼を担ったのである。


日本人官吏と朝鮮人官吏の給与も出世も平等だった


昭和11(1936)年に朝鮮総督府は地方官吏養成所を設け、西川さんはその第1期生として京城で1年間学んだ。江原道からは5人が送られたが、そのうちの2人は朝鮮人だった。養成所の第1期から朝鮮人も選ばれて、幹部候補生として育てられたのである。幹部ともなれば、日本人の上司となることもごく普通であった。

昭和18(1943)年、西川さんは江原道の21の郡の一つ、寧越郡の内務課長に昇進した。寧越郡は7つほどの村を管轄しており、全体で60名ほどの職員がいた。どこの郡でも郡守はほとんど朝鮮人で、寧越郡も例外ではなかった。西川さんは朝鮮人郡守の下で内務課長を務めたわけである。

給与も出世についても日本人も朝鮮人も全く差別はなかった。ただ内地から来た日本人には外地手当が支給された。したがって内地に働く日本人官吏と、朝鮮で働く朝鮮人官吏は同じ給与だったようだ。これは現在の多くの日本企業の海外法人よりも公平である。

その後、西川さんは道庁に移って課長補佐になったが、そこでも朝鮮人の方がずっと日本人よりも多く、また道庁の部長もほとんど朝鮮人であった。ここでも朝鮮人の上司に仕えたのだが、西川さんは全く違和感はなかったという。朝鮮人の上司は西川さんをとても可愛がってくれた

朝鮮統治では、「皇民化」で当時の朝鮮人を軍国主義に染め上げようとした、などとの批判が現在されているが、それについて西川さんはこう答える。


皇民化政策について勘違いしている方が多いのです。日本人も朝鮮人も皇民だったということです。皇民化とは日本と朝鮮の格差や差別をなくすためのものだったと思います。

(同上)


道庁内では各課ごとに野球チームを作り、野球大会をやっていた。朝鮮人は野球がとてもうまく、朝鮮人だけのチームもあったが、そこが一番強いかというと、そうではなかった。なぜか朝鮮人と日本人の混合チームがいちばん強かったと言う。個人の能力の高い朝鮮人とチームワークに優れた日本人の強みがうまく補完し合うからだろう。

朝鮮は、日韓併合後の最初の20年で、人口も米の生産量も2倍となるなどの高度成長期を迎えるが、その原動力の一つが、この日本人と朝鮮人のチームワークだった。


朝鮮人は日本名を名乗る権利があった


朝鮮人に日本名を名のらせる創氏改名が強制されたというのも、戦後の神話である。


道庁の朝鮮人官吏の人でも、創氏改名しない人はたくさんいました。はっきりと覚えていませんが、私の周りでは半数以上といったところでしょうか。「創氏改名しろ」と言う命令があったのなら、朝鮮人の官吏は、真っ先に改名しなければならなかったでしょう。


 総督府の組織の人間である官吏の朝鮮人が、国の言うことを聞かないと言う事はできません。それが名前を変えなかったという事は、創氏改名は自由だったということです。

(同上)


むしろ朝鮮人が日本名を欲しがったと言う話も聞いたくらいだった。「あの当時は同じ日本人なのだから、したかったらしたらという感じでした。無理にしろということではありません」と西川さんは回想する。実際に「氏の創設は自由 強制と誤解するな」という総督からの注意が新聞記事でも残っている。


もし、創氏改名が出来なければ差別になります。日本人と同じと言っておきながら、朝鮮人が日本名に変えることができないとなると、これは一つの矛盾となります。朝鮮人は日本名を名乗る権利があったのです。

(同上)


「徴用は、強制というより納得するように話すんです」


現在、朝鮮人労働者を日本内地で働かせた「徴用強制労働」とレッテルを貼られ、当時の日本企業に損害賠償を求める裁判まで起こされている。

西川さんは寧越郡の内務課長時代にこの「徴用」に取り組んだ。徴用とは戦時下の労働力不足に対応するための国民に対する勤労動員である。内地では昭和14(1939)年から実施されていたが、朝鮮では昭和19(1944)年9月に開始された。

朝鮮総督府が各道庁に朝鮮人男子青年の人数を割り当て、道庁は郡に、郡は面(村)に人数を割り当てる。ただし、西川さんの前任者は、10人の割り当てがあっても、5~6人しか集められなかった。

西川さんは10人の割り当てに10人集めた。その成績が非常に良いと言うことで総督府の事務官が理由を聞きに、西川さんの所にやってきた。逆に言えば、徴用は法律上は強制であっても、実際には言うことを聞かない朝鮮人も多かった、ということである。


どうやって集めたかと言うと、面長(村長)とか、関係の人にきちんと説明して、本人にも納得するように説明してもらう事でした。…


 徴用は、強制というより納得するように話すんです。それをしっかりと話をしないで、集めようとするから、皆、嫌がって日本に行かないことがわかりました。


 私はきちんと、日本に行って、日本人と同じ仕事をして、賃金もきちんともらえると、係官に説明をしてもらったのです。

(同上)


これが「強制労働」の実態だった。


「従軍慰安婦」の強制連行はなかった


従軍慰安婦の強制連行などは無かった、と西川さんは断言する。もし「従軍慰安婦」の強制連行があったら、徴用と同じように人数の割り当てがあり、内務課長がその人数を集める責任を負うはずだ。内務課長であった西川さんがそれをしてなかったという事は、強制連行の事実がなかったと言うことになる。

百歩譲って、西川さんが嘘をついていたとしても、まだまだ反証がある。西川さんの周囲には、郡長や部長レベルも含め多くの朝鮮人官吏がいた。もし朝鮮人女性をトラックで無理矢理連行するような事があったら、それらの朝鮮人官吏が黙って見ていたはずがない。必ず大騒動が各地に起こったであろう。

さらにもう一つの証拠として、当時の行政の厳格な文書主義がある。戦後、西川さんが帰国して、再就職する際に、政府から履歴書を再発行してもらった。そこには朝鮮に渡った18歳からの経歴、役職、給与までが克明に記録されていた。コンピューターもない時代に、総督府は一人ひとりの官吏にまで、このような詳細な記録を残していたのである。

終戦後の引き揚げの混乱の中でも、総督府は「特別輸送乗車船証明書」を発行している。これは引き揚げの交通費を免除するためのもので、印刷された用紙に名前を書き、公印まで押している。

もし総督府が行政命令として慰安婦を集めていたら、その命令書や執行報告書、そして集められた慰安婦たちの一人ひとりの記録が残されていたはずだ。西川さんは引き揚げ時には書類はすべて道庁に残してきたというから、もし慰安婦の強制連行があったら、その膨大な証拠書類が出てこないわけがないのである。


朝鮮人志願兵への応募30万人


「従軍慰安婦」とは対照的に、朝鮮人志願兵の記録は詳細に残っている。朝鮮人の第一回志願兵募集が始まったのは昭和13(1938)年だった。応募者は2,976人と倍率が7倍を超えたので、採用者を増やして480人が採用された。

志願者は年々増え続け、昭和18(1943)年には30万人にも達した。採用予定者は5,300人で、倍率は約57倍だった。この年にはさらに幹部候補の募集も行われた。

日本の軍隊の特徴は、日本人と朝鮮人を混在させた点にあった。そのため朝鮮人上官の下に日本人兵が配置されることもあった。そこでは朝鮮人上官が日本人の部下を怒鳴りつけたり、殴ったり、靴を磨かせていた事も、当時の軍として普通に見られたようだ。

アメリカでは、白人部隊と黒人部隊が完全に分かれ、黒人の上官の下に白人の部下がつくことなど、ありえなかった時代の話である。

靖国神社には、日本軍として戦った朝鮮人兵士約2万1,000人以上が英霊として祀られている。「一視同仁」、すなわち、日本人も朝鮮人も同じ「皇民」である、とする精神が軍隊内での処遇においても、慰霊においても実践されていたということである。


「私たちは、恥ずべきことは何一つしておりません」


終戦の玉音放送を、西川さんは自分の机で聞いた。よくは聞き取れなかったが、「忍び難きを忍び」などの天皇陛下のお言葉を聞いて負けたということがわかった。道庁の中で、朝鮮人官吏の様子については特に変わった様子もなかったようで、記憶に残っていないという。

西川さんは翌日も、職場に行った。


私は机の身近なものなど片付けて、それ以上はもう自分は必要ないから触らずに帰ってきたわけです。何も朝鮮と戦争した訳でもないから、朝鮮を差別したこともないし、内鮮一体でやってきたわけだし、私たちは、恥ずべきことは何一つしておりません。


 朝鮮人と日本人と一緒になって、一生懸命やりましょうということだけで、仕事をしてきたわけです。江原道庁で、見られて都合の悪い書類なんて何もありませんでした。総督府は善政を敷いたのです。

(同上)


日本の朝鮮統治は「植民地化」ではなく、「合邦」、企業で言えば「合併」であった。そして西川さんたち朝鮮総督府官吏は、日本人も朝鮮人も「一視同仁」、「内鮮一体」の理想に忠実に、良きチームワークを発揮してきたのである。

玉音放送の2、3日後、日本人が一人二人とコソコソと引き揚げてることを聞いて西川さんは人事課長の所へ行って、提案した。


戦争に負けて国は三等国以下になったとしても、我々国民はそのまま世界の一等国民ではありませんか、こそこそと逃げて帰るような事はしたくないです。現在、春川(シュンセン)に約1,000人位いると思われる日本人全員が一カ所に整然と引き揚げて、流石(さすが)日本国民だ、綺麗な引き揚げ方だったと、朝鮮人から言われるような引き揚げをしませんか。

(同上)


その言葉通り、在留邦人たちは一体となって、西川さんが仕立てた列車で釜山に行き、収容所で1ヶ月、船を待って、日本に帰り着いた。「一等国民」として、誇りに満ちた引き揚げ方だった。


文責:伊勢雅臣


image by: Wikimedia Commons


出典元:まぐまぐニュース!



https://news.infoseek.co.jp/article/mag2news_280690/



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( `・ω・´)





일본의 조선 통치의 「진실」


차별같은 건 없었다.마지막 증인이 말하는, 일본의 조선 통치의 「진실」

마그마그 뉴스! / 2017년 10월 4일 2시 43분


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일한 관계를 흠칫 길이 시키고 있는 원인의 하나로서 줄 수 있는 것이 많은, 일본에 의한 「조선 통치」.이번 무료 메일 매거진 「Japan on the Globe-국제파 일본인 양성 강좌」에서는, 조선 총독부에서 관리 를 하고 있던 니시카와 키요시씨의 저서 「조선 총독부 관리, 마지막 증언」의 내용을 당기면서, 조선 통치 시대의 일본인과 조선의 사람들과의 관계성에 대해서, 메일 매거진 저자 이세아신씨가 분석·해설하고 있습니다.


조선 총독부의 「일시동인」팀워크


조선 총독부에서 관리를 하고 있던 사람이, 당시의 체험을 말한 귀중한 책이 있다.올해 7월, 102세에 돌아가신니시카와 키요시씨의 「조선 총독부 관리, 마지막 증언」이다.표지의 띠에는 「아마총독부의 실태를 말할 수 있는 것은 내가 최후라고 생각합니다」라는 발언이 있다.

이 책의 표리지에 있는 사진이, 니시카와씨의 증언의 모든 것을 이야기하고 있다.그곳에서는 4명의 젊은 남성이 벚꽃나무아래에서, 어깨를 끼고 있다.캡션에는 「1934 연급리동료와 즐겁게 꽃놀이 하는 니시카와씨」라고 있다.

한 명은 옷(기모노)를 입고 있으므로 일본인이라고 알지만, 다른 3명은 양복이다.그 중의 한 명이 니시카와씨로 「다이와계 일본인」, 남는 2명의 청년에게는 「조선계 일본인」이라고 설명서 되고 있다.

사이 좋게 어깨를 끼고 있으므로, 그러한 설명서가 없으면, 누가 일본인으로 누가 한국인일까 전혀 모른다.니시카와씨의 조선 총독부에서의 업무 체험을 읽어 가면,일본인과 한국인이 일체가 된 팀워크로 일을 하고 있었던 것이 잘 엿봐진다.


마을의 주위의 산이 하게야마였다


니시카와씨는 쇼와 8(1933) 년 18세에 와카야마현의 쿠마노바야시업 학교를 졸업해, 교장의 알선으로조선 총독부에 취직했다.조선이라고 해도, 당시는 내지(국내), 외지(조선, 대만)와도 같은 일본이었으므로, 일본내의 먼 지방에 간다고 하는 감각이었다.임지는강원도(광원 어때).「길」은 일본에서 말하면 「현」에 해당해, 강원도는 한반도의 동해안, 남북에서는 정확히 중간 정도에 있었다.


조선에 가서 우선 놀란 일은, 부산(부산)이나 경성(케이죠우, 현서울) 등 마을의 주위의 산이 하게야마였던 일입니다.

…조선에는 온돌이라고 하는 신(장작)을 피우고 마루를 따뜻하게 하는 설비가 어디의 집에도 있었습니다.조선은 매우 추워지기 때문에, 이 온돌에는 대량의 신이 필요합니다.그러나, 조선에는 식림을 한다고 하는 기술도 없고, 지도자도 없었기 때문에, 거리에 가까운 산들에는 거의 수목이 없어져 있었습니다.

( 「조선 총독부 관리 마지막 증언」벚꽃 출판 편집부/성운사)


니시카와씨의 최초의 일은, 이하게야마에 식림을 하는 것이었다.우선 흙이 흐르지 않게,70~80센치의 점점을 만들어, 거기에 나무를 심는다.식림은토사 붕괴홍수 방지를 위해서 급무였다.또 바다의 근처에 식림 하는 것으로, 어장에 영양이 널리 퍼진다.니시카와씨는 일본의 임업 학교에서 「수가 없는 나라는 멸망한다」라고 배우고 있었다.

조선 총독부는 1911년부터의30년간으로,5억 9,000만개의 식림을 실시했다.조선 전인구의 한 명 당 약 25개라고 하는 방대한 수이다.니시카와씨는 그 일익을 담당했던 것이다.


일본인 관리와 한국인 관리의 급여도 출세도 평등했다


쇼와 11(1936) 년에 조선 총독부는 지방관리양성소를 마련해 니시카와씨는 그 제1 기생으로서 경성에서 1년간 배웠다.강원도에서는 5명이 보내졌지만, 그 중의 2명은 한국인이었다.양성소의 제1기부터 한국인도 선택되고, 간부 후보생으로서 자랐던 것이다.간부나 되면,일본인의 상사가 되는 일도,극히 보통이었다.

쇼와 18(1943) 년, 니시카와씨는 강원도의 21의 군의 하나, 영월군의 내무 과장으로 승진했다.영월군은 7개 정도의 마을을 관할하고 있어, 전체로 60명 정도의 직원이 있었다.어디의 군에서도 군수는 거의 한국인으로, 영월군도 예외는 아니었다.니시카와씨는 한국인군수아래에서 내무 과장을 맡은 것이다.

급여도 출세에 대해서도,일본인이나 한국인도 전혀 차별은 없었다.단지 내지로부터 온 일본인에게는 외지 수당이 지급되었다.따라서 내지에 일하는 일본인 관리와 조선에서 일하는 한국인 관리는 같은 급여였던 것 같다.이것은현재가 많은 일본 기업의 해외 법인보다 공평이다.

그 후, 니시카와씨는 도청으로 옮겨 과장 보좌가 되었지만, 거기서도 한국인이 쭉 일본인보다 대부분, 또 길청의 부장도 거의 한국인이었다.여기에서도 한국인의 상사를 시중들었지만, 니시카와씨는 전혀 위화감은 없었다고 한다.한국인의 상사는,니시카와씨를 매우 귀여워해 주었다.

조선 통치에서는, 「황민화」로 당시의 한국인을 군국주의에 염색해 내려고 한, 등이라는 비판이 현재 되고 있지만, 거기에 붙어 니시카와씨는 이렇게 대답한다.


황민화 정책에 대해 착각 하고 있는 것이 많습니다.일본인이나 한국인도 황민이었다는 것입니다.황민화와는 일본과 조선의 격차나 차별을 없애기 위한 것이었다고 생각합니다.

(전술)


도청내에서는 각과 마다야구팀을 만들어, 야구 대회를 하고 있었다.한국인은 야구가 매우 잘, 한국인만의 팀도 있었지만, 거기가 제일 강한가 하면 , 그렇지 않았다.왠지한국인과 일본인의 혼합 팀이 가장 강했다라고 말한다.개인의 능력의 높은 한국인과 팀워크가 뛰어난 일본인의 강점이 서로 잘 보완하기 때문 일 것이다.

조선은, 한일합방 후의 최초의 20년으로, 인구도 미의 생산량도 2배가 되는 등의 고도 성장기를 맞이하지만, 그 원동력의 하나가, 이일본인과 한국인의 팀워크였다.


한국인은 일본명을 자칭할 권리가 있었다


한국인에 일본명을 자칭하게 하는창씨개명이 강제당했다는 것도,전후의 신화이다.


도청의 한국인 관리의 사람이라도, 창씨개명 하지 않는 사람은 많이 있었습니다.분명히 기억하고 있지 않습니다만, 나의 주위에서는 반수 이상이라고 했는데입니까.「창씨개명 해라」라고 하는 명령이 있던 것이라면, 한국인의 관리는, 맨 먼저에 개명해야 했었지요.

총독부의 조직의 인간인 관리의 한국인이, 나라가 말하는 것을 (듣)묻지 않는다고 하는 일은 할 수 없습니다.그것이 이름을 바꾸지 않았다고 하는 일은, 창씨개명은 자유로웠다고 말하는 것입니다.

(전술)


오히려 한국인이 일본명을 갖고 싶어했다고 말하는 이야기도 들은 정도였다.「그 당시는 같은 일본인이기 때문에, 하고 싶었던들 하면 좋겠다고 하는 느낌이었습니다.무리하게 하라고 말하는 것이 아닙니다」라고 니시카와씨는 회상한다.실제로 「씨의 창설은 자유 강제와 오해하지 말아라」라고 하는 총독으로부터의 주의가 신문 기사에서도 남아 있다.


만약, 창씨개명을 할 수 없으면 차별이 됩니다.일본인으로 같을이라고 말해 두면서, 한국인이 일본명으로 바꿀 수 없다고 되면, 이것은 하나의 모순이 됩니다.한국인은 일본명을 자칭할 권리가 있었습니다.

(전술)


「징용은, 강제라고 하는 것보다 납득하도록(듯이) 이야기합니다」


현재, 한국인 노동자를 일본 내지에서 일하게 한 「징용강제 노동」이라고 평가를 받아져 당시의 일본 기업에손해배상을 요구하는 재판까지 일으켜지고 있다.

니시카와씨는 영월군의 내무 과장 시대에 이 「징용」에 임했다.징용과는 전시하의 노동력 부족에 대응하기 위한 국민에 대한 근로 동원이다.내지에서는 쇼와 14(1939) 년부터 실시되고 있었지만, 조선에서는 쇼와 19(1944) 년 9월에 개시되었다.

조선 총독부가 각 도청에 한국인 남자 청년의 인원수를 할당해 도청은 군에, 군은 면(마을)에 인원수를 할당한다.다만, 니시카와씨의 전임자는, 10명의 할당이 있어도,5~6사람 밖에 모아지지 않았다.

니시카와씨는 10명의 할당에 10명 모았다.그 성적이 매우 좋다고 하는 것으로 총독부의 사무관이 이유를 (들)물어에, 니시카와씨 곳에 왔다.반대로 말하면,징용은 법률상은 강제여도, 실제로는말하는 것을 (듣)묻지 않는 한국인도 많았다, 라고 하는 것이다.


어떻게 모았는가 하면, 갸름한 얼굴(촌장)이라든지, 관계의 사람에게 제대로 설명하고, 본인에게도 납득하도록 설명받는 일이었습니다.…

징용은, 강제라고 하는 것보다 납득하도록(듯이) 이야기합니다.그것을 제대로 이야기를 하지 않고, 모으려고 하기 때문에, 모두, 싫어하고 일본에 가지 않는 것을 알 수 있었습니다.

나는 제대로, 일본에 가서, 일본인과 같은 일을 하고, 임금도 제대로 받을 수 있으면, 담당관에게 설명을 받았습니다.

(전술)


이것이 「강제 노동」의 실태였다.


「종군위안부」의 강제 연행은 없었다


종군위안부의 강제 연행 등은 없었다, 라고 니시카와씨는 단언한다.만약 「종군위안부」의 강제 연행이 있으면, 징용과 같이 인원수의 할당이 있어, 내무 과장이 그 인원수를 모을 책임을 질 것이다.내무 과장인 니시카와씨가 그것을 하지 않았다고 하는 일은, 강제 연행의 사실이 없었다고 하게 된다.

백보 양보하고, 니시카와씨가 거짓말을 하고 있었다고 해도, 아직도 반증이 있다.니시카와씨의 주위에는, 군장이나 부장 레벨도 포함해 많은 한국인 관리가 있었다.만약한국인 여성을 트럭으로 무리하게 연행하는 일이 있으면, 그러한한국인 관리가 입다물고 보고 있었을 리가 없다.반드시 대소동이 각지에 일어났을 것이다.

한층 더 또 하나의 증거로 하고, 당시의 행정의엄격한 문서 주의가 있다.전후, 니시카와씨가 귀국하고, 재취직할 때에, 정부로부터 이력서를 재발행받았다.거기에는 조선에 건넌 18세부터의 경력, 직무, 급여까지가 극명하게 기록되고 있었다.컴퓨터도 없는 시대에, 총독부는 한사람 한사람의 관리에게까지, 이러한 상세한 기록을 남기고 있었던 것이다.

종전 후의 인양의 혼란 중(안)에서도, 총독부는 「특별 수송 승차선 증명서」를 발행하고 있다.이것은 인양의 교통비를 면제하기 위한의 것으로, 인쇄된 용지에 이름을 써, 공인까지 누르고 있다.

만약 총독부가 행정 명령으로서 위안부를 모으고 있으면,그 명령서나 집행 보고서, 그리고 모아진위안부들의 한사람 한사람의 기록이 남아 있었을 것이다.니시카와씨는 인양시에는 서류는 모두 도청에 남겨 왔다고 하기 때문에, 만약 위안부의 강제 연행이 있으면, 그 방대한 증거 서류가 나오지 않는 것이 없기 때문에 있다.


한국인 지원병에게의 응모 30만명


「종군위안부」란 대조적으로,한국인 지원병의 기록은 상세하게 남아 있다.한국인의 제1회 지원병 모집이 시작된 것은 쇼와 13(1938) 년이었다.응모자는 2,976명과 배율이 7배를 넘었으므로, 채용자를 늘려 480명이 채용되었다.

지원자는 해마다 계속 증가해 쇼와 18(1943) 년에는30만명에게도 달했다.채용 예정자는 5,300명으로,배율은 약 57배였다.이 해에는 한층 더 간부 후보의 모집도 행해졌다.

일본의 군대의 특징은, 일본인과 한국인을 혼재시킨 점에 있었다.그 때문에 한국인 상관아래에 일본인병이 배치되기도 했다.그곳에서는 한국인 상관이 일본인의 부하를 고함치거나 때리거나 구두를 닦게 하고 있던 일도, 당시의 군으로서 보통으로 볼 수 있던 것 같다.

미국에서는, 백인 부대와 흑인 부대가 완전하게 나뉘어 흑인의 상관아래에 백인의 부하가 붙는 것 등, 있을 수 없었던 시대의 이야기이다.

야스쿠니 신사에는,일본군으로서 싸운 한국인 병사 약 2만 1000사람 이상이 영령으로서 모셔지고 있다.「일시동인」, 즉, 일본인이나 한국인도 같을 「황민」이다, 로 하는 정신이 군대내에서의 처우에 대해도, 위령에 대해도 실천되고 있었다고 하는 것이다.


「우리는, 수치군령이란 무엇하나 있지 않습니다」


종전의 옥음 방송을, 니시카와씨는 자신의 책상으로 (들)물었다.자주(잘)은 알아 들을 수 없었지만, 「도둑질난 나무를 참아」등의 일본왕의 말씀을 (들)물어 졌다고 하는 것이 알았다.도청안에서, 한국인 관리의 님 아이에 대해서는 특별히 바뀐 님 아이도 없었던 것 같고, 기억에 남지 않다고 한다.

니시카와씨는 다음날도, 직장에 갔다.


나는 책상의 친밀한 것등 정리하고, 그 이상은 이제(벌써) 자신은 필요없기 때문에 손대지 않고 돌아온 것입니다.아무것도 조선과 전쟁한 (뜻)이유도 아니기 때문에, 조선을 차별한 적도 없고, 안센이치체로 온 것이고, 우리는, 수치군령이란 무엇하나 있지 않습니다.

한국인과 일본인과 함께 되고, 열심히 합시다라고 하는 것만으로, 일을 해 온 것입니다.강원도청으로, 볼 수 있어 사정이 좋지 않은 서류는 아무것도 없었습니다.총독부는 선정을 깔았습니다.

(전술)


일본의 조선 통치는 「식민지화」가 아니고, 「합방」, 기업에서 말하면 「합병」이었다.그리고 니시카와씨들조선 총독부 관리는, 일본인이나 한국인도 「일시동인」, 「안센이치체」의 이상에 충실히,좋은 팀워크를 발휘했기 때문에 있다.

옥음 방송의 2, 3일 후, 일본인이 한 명 두 명과 코소코소와 돌아오고 있는 것을 (들)물어 니시카와씨는 인사과장의 곳에 가서, 제안했다.


전쟁에 져 나라는 삼등국 이하가 되었다고 해도, 우리 국민은 그대로 세계의 일등국민이 아닙니까, 소곤소곤 도망치고 돌아가는 일은 하고 싶지 않습니다.현재, 하루카와(술센)에 약 1,000명 정도 있다고 생각되는 일본인 전원이 1개소에 정연하게 돌아오고, 유석(과연) 일본국민이다, 깨끗한 돌아오는 방법이었다고, 한국인으로부터 말해지는 인양을 하지 않겠습니까.

(전술)


그 말대로, 재류 방인들은 일체가 되고, 니시카와씨가 키운 열차로 부산에 가, 수용소에서 1개월, 배를 기다리고, 일본에 돌아왔다.「일등국민」으로서,자랑으로 가득 찬 돌아오는 방법이었다.


문책:이세아신


image by: Wikimedia Commons


출전원:마그마그 뉴스!



https://news.infoseek.co.jp/article/mag2news_280690/



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( `·ω·′)






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